昭和32年 | 千歳地域のアイヌ文化復興の初動として、水本清治、小田喜代作、 ほか有志により千歳のウタリ活動が始まる。 |
---|---|
昭和37年3月 |
社団法人北海道ウタリ協会千歳支部結成される。 初代支部長 水本清治 |
会の概要
設立 | 平成2(1990)年4月 |
---|---|
所属 | 北海道アイヌ協会千歳支部 |
目的 | 千歳における有形無形のアイヌ文化の伝承保存を図り発展させる |
事業内容 | アイヌ語とアイヌの衣食住、年中行事、祭事等と伝統的芸能の保存伝承。 |
会の発足に尽力したのは初代会長の中本ムツ子氏であり、氏のアイヌ文化を大切に思う者であれば属する民族を問わずに受け入れ、伝承保存活動のすそ野を広げていきたいという強い想いによるものだった。
本会の大きな特徴は入会申出書を提出し承認を得れば誰でも入会できることである。
歴史
昭和59(1984) 年1月 | 古くから伝承されてきたアイヌの舞踊が「アイヌの古式舞踊」の名称で重要無形民俗文化財に指定。 この文化財を保持する団体は、道内各地の保存会で構成する北海道アイヌ古式舞踊連合保存会である。 |
---|---|
平成5年5月20日 |
「アイヌの伝統的芸能と工芸技術」が千歳市の無形文化財に指定。 |
平成6年12月 |
千歳アイヌ文化伝承保存会は古式舞踊を伝承する団体の指定を受け、北海道アイヌ古式舞踊連合保存会に加入。 |
千歳は大昔から明治時代の始めに至るまで、川と陸路を通し日本海と太平洋とを結ぶ中継地点として多くの人々と共に文化や物資が行き交い、アイヌも遠くまで交易をしつつ狩猟・採集として鹿や鮭、川や森からも豊富な食料を得ることができた場所でした。支笏湖から現在の千歳市にかけ多くのアイヌコタン(村)があり、人々は豊かに暮らしていました。
しかし、明治以降は政府によるアイヌ文化を封印する同化政策の強化と、それに影響を受けた和人による差別的な社会背景の中でアイヌ文化は急速に失われていきました。
また狩猟やサケ漁などが禁止されたため、伝統的な生活はできなくなり、貧困に陥り別な職業につかざるを得ませんでした。
このため男の担う儀式などを行う機会が激減しその多くが消失してしまいました。「人前でアイヌ語で会話をする」「一つの場所に集まって儀式を行う」「多勢で歌ったりして楽しむ」など、これまでアイヌが大切にして来た文化活動を行うことが極端に少なくなってしまったのです。
一方で儀礼や慣習、信仰など縄文時代につながる精神文化はアイヌ社会の中で根強く伝承されてきました。 そして、儀礼や口承文芸、踊りなどが家庭内や限られた地域の生活の中にとどまった状態で継承されるようになっていました。その結果、 千歳においても主として家屋の中で行われる、女性が担う日常的な生活文化が、外部からの影響をあまり受けずに伝承されてきました。
しかし、こうした制約を受けながらアイヌ文化が伝承されて来た結果、 千歳のウポポ (唄) やホリッパ(踊り)は、 古い様式の素朴なリズムを残していると評価され、お婆ちゃんたちが孫のために語り次いで来たカムイユカラ(神謡)や昔話のようなウパシクマなどは、貴重な口承文芸として高い評価を受けることになりました。
現在、高い知見を持ったアイヌの高齢者であるエカシやフチたちの記憶をたどり、カムイノミ(神々への祈り)における千歳固有の所作や作法の復活・記録作業が進められています。またアイヌ語、アイヌ刺繍やゴザの制作、木彫などの伝統的な工芸技術の習得や伝承は希望する千歳市民も共に行われており、千歳市内の公立小・中学校における総合学習授業では、アイヌ民族と一体となった地道な伝承保存活動に取り組み相互理解への成果を上げています。